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お経

ところで、読経はいいものだ。
 
お坊さんならば、きっと一回一回に心を込めて、意味を咀嚼しながら読まれることと思うが、僕はソラソラスラスラと読む。あるいはなぞる。
 
無心になるのにちょうどいいような気がする。
 
 
中学生の頃は学生服の胸ポケットにいつも般若心経のポケット判を入れていた。
 
今は、中尊寺のお土産に母にもらった扇子に、経文が金字でしたためられている。
 
 
いいことも、わるいことも、多すぎないということが大事であるとは、このごろよく思う。
「対価」のバランスが取れていないとならない。
 
よいことを手に入れる分、努力をせねばならない。
楽して手に入るよいことは、必ず因果が却ってくるものなのだ。
 
 
お経は、はじめから空間には「無い」。
 
誰かが文字で書いた。誰かが唱えた。
 
そうすることで存在するが、「教え」というものは物体ではない。
 
「信念」も「学び」も、あるいは「執着」や「欲望」も、物体ではない。
 
しかしその想いは何かしら結晶して、物体になる。
 
そして、そのうちそれも消滅する。
 
ただ、それは虚しいものではない。
無を受け入れるというのは、死ぬことではない。生が有であり死が無なのではないから。
死も生もないのが無なのだ。そして、死も生も在るというのも無なのだ。
 
無無明亦無無明尽
 
 
お経は死者に読むものではない。死者は聴いていない。
 
生きているうちに読み、生きている人が聴いているのだ。
 

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