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ちくましょぼうてきに言うなら

「で、あなたは読んだの?」

 
20100209100635
 
本文を読まずに名言ツイッターをリツイートするやつは、畢竟テレビの編集映像に踊らされてるのと同じようなヤツなんだッ!!
 
…なーんて激昂してみましたテヘ。
 
ともあれ、物語というやつは大きな潮流のようなもので、その中の一文というのは、水のひとすくい、あるいはその流れの途中の景観のひとつに過ぎない。
もちろん、その景色だけで完結してしまう素晴らしさもあるけれど、そのひと言が繰り出される背景にあった大河や大海原を知っているなら、その良さもひとしおであろうと思うのですよ。
 
例えばですね、
 
「だが断る」
 
というセリフがカッコいいと思ったら、ぜひジョジョを1巻から読んでいただいてですね、41巻で「これかあ〜」と納得してください!!
そしてむしろそのあとの「まさか……まさかって感じだがグッと来たぜ!!」ってところに感動してください!

ようかい2

昔話や妖怪話には、史実から変化して起きたものも多い。

 
古事記や日本書紀は、神さまやら妖怪の宝庫だけど、これらは神話化した人の歴史であると考えられる。
 
例えばある神が別の神を討伐する。そんなできごとの記録は、古き日本の土地で、実際に行われた権力闘争であると考えるのが普通である。それはもちろん人間同士の戦いである。
 
また、河童という超有名妖怪がいる。
川辺に住み、悪さをする話もあるしいいことをする話もあるが、このルーツは製鉄を広めた民族と関わりがあるという研究もある。
抜きん出た技術、異文化の風俗や風習というものが、やがて妖怪化していくというケースもある。
 
近代では戦争映画として桃太郎が飛行機に乗って外国人の鬼を倒しにいくというものもあったけれど、そういうものが妖怪の姿を変化させて、昔からそうであったかのように見せることもある。
 
水木しげる先生のゲゲゲの鬼太郎の中では、ぬらりひょんという妖怪が、悪の親玉のように描かれ、一の子分に「朱の盤」という妖怪がいるが、本来はこのふたりの妖怪には関連がなく、ぬらりひょんに権力があるということもない。
ぬらりひょんは、大店の番台に勝手に座ってたり、主人の煙管で勝手にタバコを吹かしたりしているという「それって妖怪っていうかただの変なおじさんじゃないの?」ってだけの妖怪だけど、もしかしたら後世には「妖怪の総大将」となっているかもしれない。
 
今では、地域性や時差も関係なく情報が広がる。だけど、昔は土地から土地へ情報が伝わるのが遅かった。正確にコピーされない情報も多かった。そんな伝言ゲームに尾ひれがついて、妖怪になったものも多かった。
 
妖怪はそんな風にして広がり、眷属を増やし、日本人の心に住みついたのである。
 
 
あのね、だからそんな簡単に受からないよ、検定!
 
中級の合格率なんて、2割超えないんだよ??
 
受かるわけないって!
 

ようかい

そんなわけで、27日には妖怪検定を受けるわけだけれど、なぜか多くの人に、「コバヤシはまあ受かるであろう」と言われている。

 
本人的にはあんまり受かる気がしていない。なぜなら試験に向けての勉強というものをまだ何にもしていないからなのだ。
 
そもそも「妖怪検定の勉強」とはなんなのか。それ自体が謎と言えば謎である。
 
境港妖怪検定の実施概要にはこうある。
【境港妖怪検定とは】
妖怪の権威・水木しげる先生の妖怪考察を通じて学んだ、日本各地に伝わる妖怪や伝承についての知識を、「資格」として公式に認定する検定試験です。
つまりは妖怪の知識を試される。
 
いまさらながら、妖怪とは何であろうか。
 
 
僕は昔から妖怪が好きだ。
ルーツとなってるのは、古本市で買ってもらった「妖怪なんでも入門」だと思う。
もっとも、今でも実家にあるこの本には150円の値札がついている。
 
今になって読んでみると、創作的な部分や、不正確な部分もあるのだけど(沖縄の妖怪キジムナーがキムジナーになってたり、はくぞうすがはくそうずになっていたり)、小学生の僕には大変面白いものだった。
 
自分でもよくわからないのだけれど、僕は「怖い話」が大嫌いなのに、妖怪の話は大好きなのだ。
 
「怖い話」とは、霊的なものが人に害を及ぼす話の類いで、そういう話は聞きたくもない。こわいから。
自分で言うのもなんだけど、僕は物語のあらすじを順序立てて覚えているのが非常に得意で、怖い話は特に忘れられない。怖い話を僕に語って聞かせた本人が忘れてしまった話を、僕だけがおののきながら何年も記憶し続けることになるのだ。
小学生のころは、夏に放送される恐ろしい話のテレビ番組を、姉と二人で見ては、眠る頃にはケロリと忘れている姉をうらやましく思ったものである。
 
どっこい、妖怪はなぜか大好きなのだ。
 
実際、どこがどう違うかと言われると難しい。
 
「怪異」という点でまとめると、妖怪に関する話には、かなり幽霊話も紛れ込んで来るのだ。
 
ただ、大きくくくると怪異には幽霊もまぎれるけど、妖怪は、説明のつかないできごとや、現象や、生き物を説明するための心の置き場所であると考えられる。
 
「いる」「いない」を語り合うのはナンセンスである。
たとえば、生物学的な意味で縊鬼やヤギマジムンがいるかというなら「いない」。絶対にいない。
ただし、縊鬼を感じる時はあるかもしれないし、ヤギマジムンに出くわしたというような体験をする人はいるのかも知れない。
 
「感じ」て、「体験」をするのならば、それは間違いなく「いる」のである。
そうじゃないなら、アドレス帳に載ってるあの人も、毎日会うあの人だって、本当にいるのかどうかはわからないのだ。
 
妖怪に形や名前を与えてくれた昔の人たちは、感覚を具現化することに優れていたのだと思う。
今はすぐに「正体」に迫るが、それは説明を客観にゆだねたに過ぎず、主観の「納得」とはかけ離れている場合すらある。
 
たとえば、蜃気楼は、大気の密度の違いで光が屈折して起こる。それが正体である。実験によってそれらを実感できるにはできるが、多くの人はそれによって「腑に落ちている」わけではない。大気という見えないものの起こすことに、なんとなくの科学的説明がついてごまかされている。
 
そもそも、蜃気楼という言葉は、妖怪の起こす現象の名前である。
蜃という巨大なハマグリが気を吐いて楼閣を見せるのだ。
なんという力技な説明。
説得力ゼロと言ってしまえばそれまでだけれど、そもそも海の上に街が映っていたりすること自体、不思議でしょうがないのだから、海にいる妖怪が幻を映しているという方がよほどに腑に落ちるのではないだろうか。
 
この「感じ取る」というところが、妖怪には大切なのである。
 
 
一方で、妖怪には民俗、歴史の側面もある。
それは…明日に続く!

耳袋秘帖

風野真知雄センセイの耳袋秘帖シリーズの新刊「湯島金魚殺人事件」が出ました〜。

 
耳袋秘帖シリーズ、去年のお正月から読みはじめたのですが、もう面白くて面白くてたまらない。今回のも早く読みたいのですが、お仕事を終わらせてからのご褒美に我慢しております。
 
いわゆる時代小説で、「耳袋」の著者として知られる根岸肥前守鎮衛のフィクションの物語。
南町奉行の根岸が、江戸の怪異にまつわる事件を解き明かしていくシリーズです。
 
風野センセイの時代小説は、あんまり肩肘張ったものがなくて、楽に読めるものが多いので、娯楽小説として本当に面白いです。
僕が他の人にお勧めする時は「僕が住んでみたい江戸を描いてくれる作家」としてご紹介しております。
 
 
昨日も書いた「いいシーン」の感覚もするどくて、なんというか、切ないシーンがとても切ない。
根岸肥前はもう老体なんですが、若い頃は相当の悪だったらしく、悪にも顔が利く場面があります。その中で、悪が悪として断ぜられるだけじゃなく、どこか「好きで悪に堕ちたわけじゃない」という部分が描かれることがあって、そこになんともいえない切なさがにじみ出してきます。
 
「老い」の中にある、若い日への郷愁や、歳を重ねてきたからこその悟りをうかがわせるシーンも切ない。
 
 
ああー、オラ早く読みたくなってきたぞ。
 
 
そういえば昨日、ケータイ書籍のリストをあらためて開いてみたら、いろいろ本を読んでるつもりが、ケータイとiPodTauchの中にはほとんど推理小説と妖怪の本しかなかった。
科学教育施設を巡回公演するチームのリーダーが、これでいいんでしょうか…。
2017年8月
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